みしま地域資料探訪

新収地域資料

新しく受入した地域資料を紹介します。

・『三島市誌総索引』小﨑嘉奈子〔編〕2021
  三島市の歴史、自然環境、産業等が網羅されている『三島市誌』(上巻、中巻、下巻、増補)には索引がありません。2002年から個人でこつこつと読みも調べ上げ、項目別、図版・写真別索引をまとめたもの。調べものに大変役立ちます。

みしま地域資料探訪

 三島市立図書館では、地域の歴史を末永く伝え、三島への理解や愛着を深めていただくため、三島市および三島周辺の地域資料の収集・保存・提供に重点を置いています。そこで、平成27年度より令和元年度まで、地域資料コンシェルジュを配置しました。

 地域資料コンシェルジュは、以下のような地域資料に関すること全般を担っています。

  • 行政資料や寄贈された地域資料の内容目録作成。
  • 地域関連のレファレンス(皆さんの地元に関する調査のお手伝い)
  • 地元の方所有の地域資料の発掘・収集や、聞き取りを元にした資料の作成。
  • 簡易補修、複写作成、不明確な内容の確認調査(現地確認・関係者への聞き取り等)、内容を抜き出しての一覧や統計・地図等の二次資料作成。
  • 地域資料の正誤表作成  など

 図書館で地域資料を保存していくためには、皆さんのご協力が欠かせません。ご自宅に眠っている地域資料がありましたら、是非図書館にご寄贈ください。また、特に昭和中頃までの地域資料はなかなかみつかりませんので、地域の調査中に地元の方におたずねする場合があります。その際にはぜひお話をお聞かせください。

地域資料コンシェルジュの仕事

 地域資料コンシェルジュが、現在までに作成した資料の一部を紹介します。これらの資料は、図書館本館でご覧になれます。岩田コンシェルジュによる内容紹介をどうぞ。


・『伝染病隔離病舎(避病院、避病舎)-三島町・北上村・中郷村・錦田村-
  明治から昭和初期の時代、三島周辺にも避病院・避病舎がありました。1町10村で駿豆病院組合を設立し、隔離病舎を建設する前までは、町・村ごとにあった感染症に係る重要な施設でした。

・『中郷地区 町内別 小字表
  中郷地区の小字名を一覧にした表。地籍調査により歴史上重要な小字名が失われましたが、町内別の地番に相当する小字名を記載してみました。

・『小浜池(楽寿園内)宮島に架かる三條橋・三條小橋について
  この石橋は、京都の三条河原にあった、かつて大橋で使われていた石を小松宮彰仁親王が譲り受け京都から運搬し、築造したといわれているものです。

・『「公告式」って?知っていますか?
  公告式とは、地方自治体が条例などの公布や公示・公告などを広く一般に周知するための行為・形式のことで、条例で定められた「掲示場」に掲示して行っています。「掲示場」は、江戸時代でいう「高札場」のことです。三島の昔の掲示場の位置なども載っています。
 

今までに紹介した資料はこちら

『覚えていますか?平成の三島』

覚えていますか?平成の三島
昭和天皇が崩御され昭和の時代が終わり、平成と改元されてから2018年11月までの間に発生した三島市の出来事を、主に行政側からの観点で拾い出してみました。

『三島町役場町制状況まとめ』

三島町役場町制状況まとめ
明治41年から昭和12年までの三島町役場の事務報告、基本財産、予算、補助金等について抜粋しました。昭和15年1月10日付け三島町村吏員等に関する調(県提出資料)を見ると職員数が少ないことがわかります。

『県税 営業税・雑種税 事業者一覧』

県税 営業税・雑種税 事業者一覧
明治42年から大正15年の間の県税における事業種別戸数の変遷を記した今となっては貴重な行政資料。県税営業税・雑種税・事業種別事業者を一覧で見ることができます。

『三島における幼稚園・保育園-明治から平成-』

三島における幼稚園・保育園-明治から平成-
明治から平成における三島市内の幼稚園・保育園の概要に位置図を付けました。三島市立中央幼稚園のあゆみには、大正12年10月27提出の町立三島幼稚園の移転に関する議案(関東大震災で倒壊したため、三嶋大社東側に移転しています)も記載されています。

『東海道新幹線駅(三島駅)開設関係資料』

東海道新幹線駅(三島駅)開設関係資料
今では当たり前となっている新幹線三島駅の開設関係資料です。東海道新幹線新駅起工式の次第・新駅設置までのあらまし(昭和40年4月8日~昭和43年1月16日)・地元負担対象事業及び地元負担金算出表・新幹線三島駅開業(昭和44年4月25日)出発式(進行表)・開業式・祝賀会など。

『三島市学校校歌集』

三島市学校校歌集
現存する市立14小学校、7中学校をはじめ、県立三島北、三島南、三島長陵高等学校や日本大学付属三島高等学校、同中学校、知徳高等学校。また、合併等により現存しない三島市立東中学校、坂中学校、県立長泉高等学校、三島高等女学校(現在の三島北高校)、三島商業学校(現在の三島南高校)、三島実科高等女学校(現在の知徳高校)などの校歌を集めました。

『三島市警戒・空襲警報記録 昭和19年9月19日~昭和20年9月21日』

三島市警戒・空襲警報記録 昭和19年9月19日~昭和20年9月21日
「三島市役所 当直日誌」に記録されていた昭和19年9月19日から昭和20年9月21日までのことの抜粋です。警戒警報・空襲警報の発令された日や当日の天気、また警戒警報・空襲警報の 発令時刻や解除時刻をまとめました。

『三島の酒』

三島の酒
三島に限らず江戸時代の宿場には、酒は必要なものでした。江戸時代のことを記した「寺尾文書」によると、14の酒屋が聖徳5年(1715)11月時点で酒造り免許を認められていました。明治になり政府の取り締まりが厳しくなり、廃業や醤油製造や味噌製造などへの転業も多かったようです。三島では、平成2年(1990)の「会嘉酒造」の廃業をもって造り酒屋は無くなってしまいました。かつての造り酒屋、「会嘉酒造」「井上酒造」「中江酒造」が何処にあったのか調べました。

『神社明細帳』

神社明細帳
昭和11年の三島町時代の行政資料「神社明細帳副本」(K175/123/シ)から、合祀された神社を中心に抜粋した資料です。明治維新前までは、宮町各地に木祖神社等10の神社があったが、明治9年9月 宮町3470の地に合祀されました。十柱神社です。この神社も大正4年10月 八坂神社(のちに賀茂川神社と社名変更)に合祀されています。その他廣瀬神社が明治28年浅間神社に合祀となっていますが・・・。

『問屋場・伝馬所・戸長役場・町役場・市役所の変遷』

問屋場・伝馬所・戸長役場・町役場・市役所の変遷
江戸時代の問屋場が伝馬所・戸長役場へ変わって行き、さらに明治22年4月 町村制により三島町となり町役場となっています。所在地も久保町(現在の中央町)郵便局付近から同町NTT北川付近へ、更に三島市役所西館付近へ移りその後元の場所に戻ったが、大正8年4月前の郡役場(現在の社会福祉会館)に移転、しかし昭和5年11月の北伊豆地震で倒壊したため現在の市役所の位置に移っています。(役場の位置を定める条例は、昭和7年5月25日議決されています。)その後、昭和16年4月29日市制施行により三島市役所となりました。なお現在の市庁舎は、昭和35年市制20周年を記念して建設されました。

『三島市内施設一覧』

三島市内施設一覧
昭和9年の三島町、終戦から10年、20年後の三島の町はこんな様子でした。主な施設や店舗等を調べました。
『三島明細図』(昭和32年 明細図編集者発行)からみた「三島市内施設一覧」と病院・医院、映画館、温泉・銭湯、ホテル・旅館、染物・呉服店、喫茶店、質屋、時計店、書店、桶屋、笠屋、表具店を地図から調査。
また、昭和9年12月1日現在の「種類別・位置別工場一覧」と「位置図」を添付しました。

『三島野戦重砲兵連隊』

三島野戦重砲兵連隊
大正7年、8年に陸軍野戦重砲兵第二連隊、第三連隊が三島にやってきました。同時に三島衛戍病院(陸軍病院)も併設されました。
  この資料は、土屋壽山氏の『三島の戦跡を尋ねて』から「三島野戦重砲兵連隊」関係を抜粋し、現在の地図に落としてみるとともに、現地を歩き、現在の写真を添付しました。第二連隊が三島に来てから99年、戦後72年が経過し、旧軍隊用地の大半が教育施設として利用されていることを再認識し、平和のありがたさを次世代につないでいきたいものです。特に第二連隊の営門は位置こそ変わっていますが、移設され、毎日北中の生徒が利用しています。また、第三連隊の営門も北小学校の校舎建築に伴い正門が新たに造られ利用されませんでしたが、北幼稚園が移転建築された後、幼稚園の通用門として利用されています。その他の建築物としては、衛兵が交代で立っていた衛兵悄舎が3基現存しています。また、陸軍病院が市民体育館のところにありました。体育館入口の横断歩道を渡ったところに石碑が建っています。是非一度ご覧ください。